風土と街と近代と、愚図なやつらばっかじゃないぜ

カンボジアに諸々のヤボ用で訪問した後、バリへのフライトのためバンコクに立ち寄った。

カンボジアと言うと素朴な農村のイメージがあるかもしれない。実際そういうものは確かにある。


しかし外人が行くようなエリアは単なるコンクリート街で、灼けつくヒート・アイランドがその実態だ。

さらにタイに来ると効きすぎのクーラーが襲いかかり、バンコクにいたのはほんの2日なのに風邪を引いて熱を出し、近代的なカッコいいコンドミニアムでただ寝込んでいた。



■新興国を席巻する近代

つくづく思うが、東南アジアの気候の中で、新宿のような街を建設することに意味はない。カンボジアのプノンペンもそうだが、新興国がこぞってバンコクや新宿を目指すのであれば、その先にあるのは自滅でしかない。

タイは日本と同じく、アジアでは珍しい植民地にならなかった国だ。だから徹底的に搾取された近隣国よりは、比較的裕福だ。そしてその富を、結局は鹿鳴館のごとき西洋コンプレックスの糊塗につぎ込んだ、としか自分には思えない。

マニラでも同じことを感じたが、ここはもう、ずーっと金を注ぎ込み続けねば維持できない。タダで維持できるものを捨ててしまったから。熱帯の太陽は無償で強烈なエネルギーを注ぎ込み、緑を生い茂らせ、いずれそれは実を結ぶ。


それを捨てた以上、今ある大都会も金が途切れればそれまでである。東南アジアの地方各所にある、更新できない古いビルが並ぶ、メンテの行き届かない電線が目に見えて垂れ下がる、ドブ川にプラゴミが溢れる、ちっとも心の安まらない、その上きらびやかな気晴らしも大して無い、うらぶれた町の群れがそのモデルだろう。

ではそのように落ちぶれるまでは、アジアの大都市は価値が高いのだろうか。アジアの大都市は近代的に開発され、高層ビルもあり、コンビニにモノは溢れている。しかしそれが故にこそ、訪れた外人にはそこがタイなのかフィリピンなのかも、言われなければ分からない。

それは日本の地方都市の無個性さと重なるように思う。何も知らされず長崎駅に降り立って、ハイ岡山着きましたよ~と言われたら、ああここが岡山か~とマヌケにも騙されてしまうだろう。そこにあるものは他のどこでも見ることができる。

バンコクはそういう、金太郎飴のようなアジアの徒花の一つだ。そういう街の特徴は、気晴らしの種がたくさんあることだ。お金は回っているものの、人が実は矛盾に苦しんでいるからだ。自分に風邪をひかせたヒート・アイランドとクーラーのコンボは、そういうものの象徴だろう。

バンコクには日本人もたくさんいて、「同じであること」と気晴らしを偏愛する、ある種の日本人は親しみを感じるのだろうなと思う。

酒と女とディスコ

■近代と共存する

カンボジアもプノンペンはどんどん古いものを壊して新しいビルに置き換えているという。プノンペンは別にそれでいい、と自分は思う。同じようにマニラも、ジャカルタも、サイゴンも、もちろんバンコクも。

そういうビジネスと金融のセンターは、それはそれで有用だからだ。もちろんそれ以外の地域で自文化を守るのは必須の前提だ。だが、それが守られているとは思わない。

プノンペンの金融機関

熱帯の町にはもっと緑を溢れさせるくらいに入れておかないと、例えば西洋風の広々した公園など作ったって誰も使わない。陰がなくて暑すぎるから。

人っ子一人いないイポーの昼の公園に、マレーシア固有の文化はあまり見当たらない

また、文化的に大事なものは、近隣も含めエリアごと保存しなくてはならない。旅の出初めの日本橋が高速道路に覆われていてどうするのだ。

そういうシンプルな、常識でわかることを分からなくさせるのが、普遍的な正しさを標榜する’近代’だ。

ローカルな常識が古くさいものとして簡単に忘れられる。自分の文化への誇りを忘れたマヌケさが、東南アジアのあちこちで見る、誰も使わず、周囲にかろうじて残った木の影で、人々が携帯をいじってSMSを打っている公園の無意味さにそのままつながっている。

森の中に小さく切り開いてコートを作ればいいじゃないか。木々の間に木のベンチを置けばいいんじゃないか。森の木陰のなかで、スポーツだけじゃなく森の音楽会みたいなこともできる。それはとても美しいじゃないか。

とか思ったりするのだけれど、大きく整備されていることが何かの価値に思える、という心性に、確かに人間は陥ることがある。日本人こそ、そういうことを知っている。

スラウェシ島の避暑地・マリノの美しい森。この中に溶けこむようにコートがあったら。

そうは言っても近代の効率や便利さは、一面で人類を幸せにした、とも言える。毎日痛む腰を抱えて深い谷に水を汲みに行くことから解放されるのは、確かにいいことだと思う。森を切り開くのも重機があるとないとでは凄まじい労力の差がある。それは明らかだ。

だから、それをうまく使うこと、逆に言えば使われないことが大事なのだと思う。人間のためにそれはあるのだから。

■「近代」と書いて何と読む?

日本は美しい島国の海岸線の、実に3割をコンクリート護岸してしまった、と聞いたことがある。

いつか訪れた、ポニョのモデルで有名な鞆の浦も、いかにも日本らしい味のある美しい海辺と町のあいだを、のっぺりとした無機質なコンクリートが無神経に隔てていた。日本家屋が並ぶ街並みも、四角いコンクリ建物に汚染されてまだらになっている。

そしてここはポニョのモデルになったこともあって、観光で振興したいのだという。このマヌケさである。

宮﨑駿にインスピレーションを与えた、鞆の浦の味のある美しさは、先人が時代を経て連綿と維持してきたものだ。そして世界のビッグネームを惹きつけたその風景は、壊さなければ世界中から人が見に訪れる可能性がある。

別に変わったことをする必要はない。その町を維持してきた暮らしのあり方に誇りを持ち、ただ続けるというだけのことだ。そういうところに四角い近代コンクリビルを入れて、「土建で町が儲かったから」喜んでるというのは、ほとんどグロテスクな話だと思う。

そしてその行きつく先は?ヒート・アイランドからクーラーに逃げ込んだ挙句、風邪を引いて豪華なコンドミニアムで寝込むような世界だ。そしてそれすら維持することもできず、何も生えてこず、誰も訪れて金を落とさない老朽化したコンクリに囲まれて、いずれ悲惨に破綻する。

してみると近代というのは、実はそう書いて’マヌケ’のルビがふられているのかもしれない。特に新興国に顕著な、近代の怒涛のような進展に振り回されず共存するためには、その程度は相対化していていいのではないだろうか。

■2つの未来

近代が破壊した後の時代が、次の世代の金をぜんぶ食いつぶした上で破産するのか、お金をもたせるために原発を入れて放射能で住めなくなるのか、どんなものとして訪れるかは知らない。

自分がやっていた日本の田んぼは放射能に汚染され、もうそこに戻ることはない

別に頑張って正確に予測しなくても、近い将来、日本という国が体現してくれそうだ。新興国が近代的に「発展」するべきか決断するのは、それを見てからでも遅くはない。

というか原発の事故見て気付けよ、とも思うが、実は気付いている人たちはちゃんといる。

>> インドネシア、原発とブランド―情報時代の野蛮人から(1)

発展とは自らから発するものが展開してゆくことなのだ、外から”強くて正しい”ものを入れることじゃないのだ、と。日本人はチェルノブイリでも気付けなかったが、そんな愚図なやつばっかじゃないのだ。

そしてカンボジアでも、その種の希望は花開いている。

NGOとか被支援国といったイメージがあるかもしれないが、実はカンボジアには、近代化という徒花によって一時的にできた余裕を活かして、続出するソーシャルな問題を自分たちで解決しようと取り組むワカモノたちがたくさんいるのだ。

特にプノンペンの活気は特筆モノで、自分が行ったソーシャル・ベンチャーのピッチイベントでも、


  • どんどん伐採されてゆく森を保存するためのツーリズム
  • プラゴミを使ったソーシャルなファッションショー
  • オーガニック農法の普及


その他さまざまな活動を、ワカモノたちが中心になって展開している。

プノンペンのソーシャル・ベンチャー向けピッチイベント

それを外国資本も応援していて、このイベントでもトップ3のグループにはマレーシア視察や賞金$5,000などが授与され、さらなる展開を促している。

何より、プノンペンで会ったカンボジアのトップ学生たちは、自分が見た、プラゴミとツーリストの排泄物にまみれてゆく美しいロン島の話をしたとき、本当に真剣にそれを受け止めていた。

>> Koh Rong waste - Google 検索


■知っている人間として

たまたまだろうと思うが、そういうものをインドネシアの優秀な学生には感じなかった。バンドゥンで会ったMBAくんは、学歴をゲットして大きな石油会社に就職して「成功」することしか頭になく、自分たちの文化を破壊しかねない近代化という話には顔をしかめて目を逸らした。

バンコクにもあまり感じるものがなかった。未来の無い街を開発するカネに乗っかった様々な小売・サービス業があり、そういう、近代が用意した何かの役割に嵌まり込めば生活に困らず「中流」になれる。それができない貧困層に比べたら、掛け値なしの「成功」だ。

しかし課題山積で沈んでゆく近代国に生きる自分には、その「成功」にはおそらく先に書いた「近代」と同じルビが振られている、としか思えない。バンコクのトップ大学を卒業し、日系企業で働くワカモノは、日本人のあまりに細かい要求に疲れ果て涙を落としていた。そんなにまでして頑張って、得られるものは目先の「中流」だけだ。

この先の時代には、2つの未来がある。どう考えても全員で崖に突っ込んでいく未来と、近代を賢明に使いこなし、自然と調和した豊かな文化を作り続ける未来と。

自分はたまたま後者をカンボジアに見た。先進国と呼ばれるものが崖に向かって先進してることを知っている人間として、あのワカモノたちを何らか支援することで、できることがあるんじゃないかと思った。

日本でITコンサルで高サラリーを目指すという道に一ミリも意味を感じられなくなった自分が、歩める道があるように思えた。近年はバリで自然農稲作に取り組んでいたが、とりあえずここ1,2年はカンボジアでも、いろいろと模索してみるつもりである。

だから、Let's GET A LIFE in Khmer. 意味は調べてほしい。何をするにせよ、自分はあのワカモノたちが作るような流れの中にいたい、と考えている。



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